水前寺公園の歴史について
水前寺公園と一般的に呼ばれることが多いのですが、正式には「水前寺成趣園」といいます。
ここで湧き出す湧水は、阿蘇に降った雨や雪などが、20年以上もの間、地下を流れていたもの。江戸時代のはじめ、渾々と湧水が湧き出ていたこの地を細川忠利公がたいそう気に入り、御茶屋を作ったのがはじまりとされています。
細川綱利公の代に、大規模な作庭がなされ、桃山式回遊庭園として整備されました。細川護久公の代には版籍奉還で一時官有地となりましたが、明治11年に成趣園を境内地として出水神社が創建され、昭和初期からは動物園も併設されていました。園内のいちばん風景のよいところには古今伝授の間が今でも残されています。
水前寺成趣園の観光と見どころ
湧水で満たされた美しく澄んだ池が、よく手入れされた庭園とあいまって、見事な景観を見せてくれます。
園内では四季折々の風景を楽しむことができます。じっくりと時間をかけて、ゆっくりと園内を巡られることをお勧めします。
園内に漱石の句碑が3基あります。漱石が生涯に作った俳句は約2600句。その中でも「湧くからに流るるからに春の水」は最高傑作ともいわれています。
公園内では、以下のものを探してみましょう。
- 参道入口にあった鳥居が、熊本地震で倒壊しました。その立派な御影石を用いたモニュメント等があります。
- 成趣園の池には、白色のスッポンが2匹います。
- 成趣園の池でみかけるササゴイという鳥は、面白い方法で魚をとらえますから、見つけてみましょう。
細川幽斎公と古今伝授の間
この建物はもともと京都御苑の八条宮家の中に建てられ(1590年代)、幼少の智仁親王の学問所とされていました。ここで細川幽斎から智仁親王への古今和歌集の秘伝が伝授された建物であります。明治4年、古今伝授の間は細川家ゆかりのものであるとして桂宮家から細川家に下賜され、大正元年に現在地に移築されました。
細川幽斎は幾度となく訪れた細川家の危機を誤ることなく、安泰へと導いて行きます。幽斎の質実剛健を旨とした、学問を重んじる文化的家風は忠興や忠利に引き継がれていきました。
1600年の7月、京都の田辺城に石田三成軍15000名が襲いかかります。田辺城を守る幽斎軍はたったの500名です。幽斎の命が危ないとみた御陽成天皇は勅命により、三成軍に城の包囲を解くように説得しました。なぜ天皇は1人の武将にすぎない幽斎公を勅命により助けたのでしょうか。それは古今伝授の伝承者である幽斎公が、死んだら古今伝授が途絶えると考えたからです。武将たちの戦において天皇が勅命を出したのは、この1回だけと言われています。天皇が古今伝授をいかに重要に思っていたかがわかる出来事であります。幽斎が天皇の弟、智仁親王に送った「いにしえも今も変わらぬ世の中に、心の種を残す言の葉」は古今伝授にかける幽斎公の必死さが伝わる詩です。
その後幽斎公は10年間、徳川家康に尽くし77歳で逝去しました。家康は幽斎公を高く評価し、感謝していました。葬儀は小倉城下の野上ケ原で盛大に執り行われました。京都の五山の僧が150名葬儀に携わったと伝わります。また英彦山の山伏500人が法螺貝を吹いて入城し、偉大な幽斎公の死を弔いました。
水前寺公園の池の不思議
平成28年の熊本地震で公園の湧水は自噴しなくなりました。しかし驚くことに半年ぐらいで池の水はもとどおりになりました。なぜ、池の水は無くなったのか、なぜ、もとどおりに回復したのか。地震後すぐに、池にドンドン水を入れましたが、地震後はザルに水を供給するが如く地下に吸い込まれていき、水はたまりませんでした。
地下の地盤、阿蘇火砕流堆積物(aso4)からの伏流水の不思議を感じます。専門家の説も色々です。ある専門家は地下水を供給している帯水層に、ひび割れが発生し深い層に水が流入したと