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第三旧居から小天温泉
明治二十九年に第五高等学校(現在の熊本大学)の教師として来熊した漱石。熊本には4年3ヶ月過ごし、6回も転居をしました。
漱石は五高の友人、山川先生と第三旧居から、明治30年暮れ玉名の小天に旅をします。逗留したところは前田カガシの別邸でした。当時、前田家は大変な資産家で、綺麗な若い女性も出戻っていました。明治39年9月小天旅行の体験を草枕に発表しています。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」草枕の冒頭部分は名分であり、哲学的であります。
漱石の新婚生活
漱石にとって、熊本時代は幸せな時代であったようです。松山時代に見合いをしていた中根鏡子と結婚。結婚式での列席者は、新婦の父 、東京から来た女中と婆や、車夫の総勢6名で、かかった費用はわずか7円50銭という質素な式でした。三三九度の杯が1つ足りなくて、後に鏡子がそのことを語ると、「どうりで喧嘩ばかりして、夫婦仲が円満にいかないわけがわかった」と笑ったそうです。
鏡子は貴族院書記官長の娘として天真爛漫に育ち、東京にいたときは買い物さえしたことがありませんでした。そのため、家事はたいへんな仕事だったようです。しかも、鏡子の朝寝坊は有名で、漱石もしばしば朝食抜きで学校へ行くことがありました。漱石は新婚早々、「俺は学者で勉強しなければならないから、おまえなんかにかまってはいられない」と鏡子に宣言。また、面倒見のいい漱石を慕い、同僚を下宿させたり、五高生を書生としておいたり、大勢の弟子たちの出入りも多かった。そんな中でやりくりし、家庭を切り盛りできたのも、鏡子がおおらかな性格だからできたのかもしれない。
明治30年、結婚して初めての正月を迎え、鏡子は苦心しておせち料理を作りました。しかし、下宿していた漱石の同僚や学生が食べ尽くしてしまい、年始客が来たときには出す料理がなくなってしまうのでした。夫婦は年始早々大げんかをしてしまい、これに懲りた漱石は、次の年から年始客からの逃避を企てます。これが「草枕」のモデルとなった小天旅行です。
鎌研坂
小天温泉旅行のときに漱石が通った道は、現在では「草枕の道」として、ハイキングロードとして整備されています。
「山路を登りながらこう考えた」という草枕の冒頭の一文は、この鎌研坂附近と考えられている。明治30年暮れも押し迫った頃、五高の友人(山川信次郎)と二人で、雨の中河内の小天温泉まで歩いて旅をした。
峠の茶屋と、草枕の道
「おい、と声をかけたが返事がない」、小説「草枕」の有名な一節ですね。夏目漱石が天水町の小天温泉へ温泉旅行に旅立ったとき、峠の茶屋に立ち寄っているのですが、さきほどの有名な台詞は、その茶屋での場面とされています。
漱石はそのとき、鳥越峠と野出峠を通っているのですが、どちらの峠にあった茶屋に立ち寄ったのかまでは、小説には書かれていません。野出峠には現在茶屋はなく展望公園があるのみで、鳥越峠に茶屋が再建されております。
草枕交流館・前田家別邸
草枕交流館は、草枕温泉てんすいの近くにある。小説「草枕」にまつわる展示をしている資料館です。スクリーンで上演されている映像では草枕の背景となる史実がよくわかる作りになっていて、一見の価値ありですよ!
また、草枕の舞台となった浴場は現存していまして、草枕交流館からほんの200m下ったところにある前田家別邸にあります。右の写真はその前田家別邸に現存する湯船で、2005年に修復を終えて、一般公開されるようになりました。
草枕のお湯のシーンは実際にあったようで、モデルになった女性の回想録によれば[女湯がぬるめだったので男湯に入ったら、二人がクスクス笑っているので、びっくりして飛び出た]と、二人とは漱石と山川である。
夏目漱石の人生観
漱石は38歳から49歳まで、次々にベストセラー小説を世に送っている。熊本の体験等をもとにした小説には「吾輩は猫である」「草枕」「二百十日「三四郎」などがある。三四郎の中で「人間はね、自分が困らない程度内でなるべく人に親切がしてみたいものだ」と自分の人生観を吐露している。
彼はベストセラー作家になってからも豪邸を建てることもなく、生涯借家住まいに徹した。また、お金への執着もあまりなかったのか、親や兄弟、親戚、弟子等に気前よくやっている。彼は慈悲深く心優しい性格なので、漱石のまわりには大勢の人が集まった。
※写真は、夏目漱石が宿泊した、前田家別邸の離れの六畳間。