石橋を訪ねて
【モデルコース】明八橋 → 門前川眼鏡橋 → 下鶴橋 → 八勢眼鏡橋
※交通手段は車になりますが、基本的にはご依頼者のほうでお車を準備していただきまして、そこにガイドが同乗する形になります。(別途交通費をお願いする場合があります。)
石橋はなぜほとんど九州に架橋されているのか。日本各地には多くのお城があり、そこでは立派な石垣を見ることができる。お城の石垣に適する石は、石橋にはあまり向かないようであります。九州地方に圧倒的に石橋が多いのは、石橋に適した石が地域にあったからである。その岩石は加工しやすい阿蘇溶結凝灰岩である。適材があったことと、高い技術を持った石工集団がいたことが九州に素晴らしい石橋ができた理由である。特に熊本県は数が多く、約620基が造られ、今でも約320基が現存している。
明八橋(熊本市)
橋本勘五郎(丈八)は明治政府に招かれ、東京で多くの仕事を手がけた。万世橋や浅草橋を架橋した。江戸橋も勘五郎が深く関わったと言われている。当時、勘五郎は全国的にも、トップの技術を持っていたのであろう。
この橋は帰郷後の作で、勘五郎が文明開化を予見して造ったもので、橋の幅も広く現在も活用されている。明治8年に造ったので明八橋である。すぐ近くには、勘五郎が造った明十橋もある。二つとも近くの安山岩で出来ている。安山岩は固くて加工がしにくい。
門前川眼鏡橋(御船町)
熊本県は石橋の宝庫ですが、現存する石橋のなかでは県内で2番目に古い、「県の重要文化財」の石橋です。架橋は1808年で肥後と日向を結ぶ、日向往還にかかるもので、200年以上も前の橋が往時の姿をとどめ、今も小学校の通学路として利用されています。
この橋の特徴は輪石と輪石を川石でつなぐ楔石工法で築かれていることであります。この工法は非常に珍しく、県下では3基しか存在していません。この工法は後に緑川流域に数多くの石橋を残した、種山石工とは流れが違う集団である。
下鶴橋(御船町)
天下にその名をうたわれた橋本勘五郎とその子ども、弥熊の作です。八勢川に架けた石橋で、明治15年10月から明治19年10月まで、まる4年を費やして完成させました。橋の基礎部分は、通潤橋でも組まれた熊本城の鞘石垣を応用しています。勘五郎は翌年には亡くなっています。
日本を代表する名石工の知恵の集大成が下鶴橋と言えます。国宝になった通潤橋と並び称される下鶴橋です。石工の遊び心も確認することができます。
八勢眼鏡橋(御船町)
この橋は山里の景色に溶け込んだ石橋で、上益城郡の石橋の中でも大変に人気がある眼鏡橋で、県の重要文化財に指定されている。八勢橋は肥後と日向をつなぐ重要な眼鏡橋であった。
橋のないころは深い谷を登り降りしながら物資を運んでいた。そんな状況を見かねて動いたのが地元、御船の豪商・林田能寛です。惣庄屋や村人を説得し、私財をなげうって悲願の石橋を完成させました。