細川幽斎と古今伝授の間と水前寺公園はどんな関係が


下は平成28年4月の熊本地震後に公園の池の水が底がぬけたように干上がった写真です。誰もが阿蘇からの伏流水がなくなるとは思いもしませんでした。池の湧水が無くなった原因はなんでしょうか。明治22年の地震では今回とは逆に園内の遊歩道から水が湧き出し、1週間後には収まったという資料があります。明治の地震のときは粘土層にひびが入り、被圧地下水が湧き出したと考えられます。


新たに確認された活断層の水前寺断層は熊本市渡鹿から沼山津附近まで断層線が複数走っていると言われています。この断層線に沿って水前寺成趣園があることから、地下水位が下がり、池の水が一時涸れたという説もあります。


上の写真をよくみてください。全く水が見えませんね。地震前はこの附近が一番湧水が多いところでした。何故地震でこのような現象が現れたのか、専門家の統一した見解はないようです。地震前、湧水は地表に出てきていた、地震後、湧水は地下に沈下するようになりました。しかし驚くことに、少しずつ少しずつ池に水が溜まるようになりました。地震から半年後、湧水量は以前と同じになりました。池の水が以前と同じようになり熊本市民は大変、安心いたしました。


さて、地震から最初の冬の水前寺公園の水は、一段ときれいに澄んでいるように思います。公園には白いスッポンが2匹いますが、残念ながら冬は冬眠しますので、姿を見ることはできません。スッポンも池の水がなくなりびっくりしたことでしょう。


上の建物は「古今伝授の間」であります。元々この建物は京都の御所にありました。京都にあった建物がなぜ、ここに移築されたのであろうか。古今伝授の間は細川幽斎公が天皇の弟に古今和歌集の奥義、秘伝を伝授した勉強部屋でした。幽斎公は文武両道の武士でした。幽斎公はありとあらゆることに一流だったということです。特に和歌は幽斎公の右に出る学者はいませんでした。そういうことで、武士でありながら伝授することになるわけです。幽斎公は足利将軍に仕え、次に信長に仕え、信長亡き後は豊臣秀吉に仕えます。秀吉亡き後は、徳川家康に仕えました。幽斎公は和歌を通じて一級の情報収集をしたと言われています。幽斎公の孫、細川忠利公が1632年に熊本藩の藩主になりました。水前寺公園は忠利公が藩主の休憩所として作庭されました。幽斎公は1610年に京都で亡くなったので、熊本に住むことはありませんでした。しかしながら、古今伝授の間は幽斎公と縁が深いということで、ここに移築されたわけです。色々な意味でこの場所が一番相応しいと思われます。

日本の三大名城の熊本城は天守閣から修復がなされています。


熊本城ボランティアガイドは熊本地震後、案内に工夫が必要になりました。何故かと言いますとそれは、城内に入れないからです。さて、上の写真は平成31年1月の写真です。小天守は最上階の4階部分がない状態ですが、大天守は足場がなくなり建物がよく見えるようになりました。熊本城は平成28年4月の熊本地震で甚大な被害がでました。不幸中の幸いは2回の地震が夜であった為、ケガ人がいなかったことです。早く観光客を建物の中にいれるべく、大天守と小天守を最優先して工事が行われています。令和の天守閣は地震に強い様々な装置が設置されています。


熊本城天守を北側の加藤神社から撮った写真です。上と下の写真はどちらが新しいでしょうか。下の写真は小天守に屋根があり、上の写真は屋根がありません、非常に紛らわしいと思いますが、上が新しいです。屋根部分を軽量化して地震に強い工事を施すみたいです。頭が重たいと地震には弱いようです。大小天守の最上階は30%軽量化になります。上の画像がわかりやすいが、大きな四角い杭が見える。城がある茶臼山は非常に弱い地盤といわれている。阿蘇溶結凝灰岩が本丸の地下40メートルの厚さで堆積している。石垣もこの地盤ゆえ崩れやすいのかもしれない。ゆえに天下の大林組は基礎杭を深さ47メートルまでいれている。熊本地震でも12本の基礎杭のおかげで、致命的な損傷はなかった。しかし大天守の最上階の瓦がほとんど落ちてしまった。阿蘇溶結凝灰岩は軟弱な溶岩である。


われわれ、県民も熊本城がこんなに激しく傷つくとは夢にも思いませんでした。完全修復まで20年の歳月がかかるといわれています。熊本地震から3年すぎましたので、あと17年かかることになります。熊本城観光ガイドの私も修復完了を見届けたいものですが、それは叶わぬ夢でしょうか。日々、健康に細心の用心をして熊本城の完全復旧をこの目で見たいものです。

会津若松と熊本を戊辰戦争と西南戦争を通して考察します。

 
これは四斤山砲です。西南戦争では薩摩軍も政府軍も主力の大砲でした。両軍の火器の数の差は歴然としていました。田原坂の戦いで力説しなければならないことは、大砲や銃器等の火器で決着がついたのではないということです。政府軍は薩軍の白刃の斬り込みに怯えていました。「刀には刀を」ということで政府軍は士族出身の警視抜刀隊を田原の戦いに投入しました。彼らは刀だけで戦いましたので、多くの戦死者が出ました。腕に覚えがある警視抜刀隊は薩摩の示現流とも互角の戦いをしました。「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」と民謡田原坂にも歌われています。激しい戦いが3月4日~3月20日まで続きました。田原坂を凹道に掘ったのは加藤清正公と言われています。政府軍は熊本城に入城するために、くぼ地の田原の坂道を通らざるをえなかったのです。田原坂では両軍に大きな被害がでました。田原坂は政府軍にとって、「越すに越されぬ坂」でした。田原坂は西南戦争で一番有名な激戦地ですが、阿蘇でも人吉でも御船でも八代でも激戦がありました。


平成25年の NHKの大河ドラマ「八重の桜」を憶えていらっしゃいますか、会津戦争は悲惨な話ししかない中で、唯一の痛快な出来事が山川大蔵(浩)が思いついた奇策でした。それは笛と太鼓を打ち鳴らした彼岸獅子を先頭に舞わせながら堂々と敵陣を進み鶴ヶ城に入城したことです。秋月貞次郎は副軍事奉行として籠城戦を指揮しました。しかし会津の鶴ヶ城は薩摩軍の大砲でぼろぼろになり、会津は降伏しました。貞次郎は最も困難な降伏、開城を取り仕切ったと言われています。五高時代の同僚、小泉八雲から「神のようは人」と言わしめた」のは命がけの難しいことを処理したからであろう。戦いに負けた会津藩はその後、青森の斗南藩で筆舌にしがたい、悲劇的ことが色々と起こりました。そういうことで会津人は大変に薩摩を憎んでいたと言われています。(そういう時代背景でしたが、なんと鹿児島出身の大山巌陸軍大将と旧会津藩の家老の娘、山川捨松が明治16年に結婚しました。会津戦争と西南戦争で因縁を重ねたので、郷里の人々にとって受け入れられるものではなかった。大山家は薩摩と会津の両方とも親戚づきあいが絶えたと伝わる。)戊辰戦争は完全な銃砲戦であったが、西南戦争の初めは抜刀攻撃が戦果をあげ、重要な戦法として位置づけられた。

 
これは、中央の青色が熊本城の全域です。一周、5.3キロもある大変に大きい城です。薩摩軍は赤線で、熊本城を大きく包囲(約16キロ)しました。政府軍は城の各要衝に四斤山砲などの大砲を26門、設置しました。それに対して薩摩軍は約8門の大砲でお城を攻撃しました。西郷隆盛はお城の周辺に、居場所を変えながら約50日滞在しました。西郷は西南戦争で自ら、指揮をとることはなかったと言われています。50日以上、熊本城は薩摩軍から包囲されていました。しかし、八代港から上陸した衝背軍の山川浩(山川捨松の兄)が4月14日に入城しました。勿論大変な戦闘の末に入城することができたと言われています。山川浩は旧会津藩若年寄で、西南戦争では陸軍中佐として大活躍しました。彼もまた会津戦争で薩摩を非常に恨んでいました。戊辰戦争で鬼官兵衛と言われ恐れられた、佐川官兵衛は西南戦争では警視隊副指揮長として、阿蘇方面で戦いました。政府軍で参戦した会津藩の旧士族は会津戦争の恨みを西南戦争にぶつけたと言われています。会津城も熊本城も籠城戦でした。戊辰戦争で会津城の天守は大砲でボロボロになりました。西南戦争では、熊本城の天守等は燃えてしまいました。明治10年の2月22日~9月24日まで、悲惨な戦争が九州各地で7ヶ月間繰り広げられました。私、永田は熊本城や水前寺公園などをガイドしています。是非、熊本城にも来てください。(携帯電話090-2858-4760)

熊本城域にある7本の大楠は西南戦争時に激しく傷んだ


千年クスノキと言われるが、西南戦争で薩摩軍から激しい攻撃をうけクスノキはボロボロになる。しかし140年以上経ち、7本の大楠は逞しく大枝を張っている。この場所は、地元の人しか知らない、隠れたパワースポットであります。熊本城ガイドとしてこの付近をガイドすることは殆んどありませんが力を貰える所です。

この付近にありました藤崎宮も、西南戦争時に、花岡山に設置した薩軍の大砲によって社殿はめちゃくちゃに壊された。大楠が7本も同じ場所にあるのは、国内でも少なく、大正13年に国の天然記念物に指定されました。藤崎宮は現在ここから少し南の井川渕に移転した。下の写真を見て頂くと楠木の大きさが実感していただけると思う。熊本県の県木は楠木、県内のいろいろなところに大クスがあります。


熊本城は周囲5.3キロで東京ドーム21個分の広さがある。この広い城域にこのような大楠が多数存在するのも熊本城の魅力の一つであります。熊本城の魅力は石垣や天守、井戸だけではありません。夏は非常に涼しいので散歩に来ていただきたいところです。熊本城をガイドをするとき、必ずお客様と実験することがある。それは、お客様にクスノキの葉っぱ(樟脳)を嗅いでもらうことである。子供はあまり喜ばないが、大人のお客様は大変に感激される。やはり人間はいい香りや嫌な臭い等には敏感なようである。今でもクスノキをチップにして樟脳を製造している。


阿蘇山は大きな大火砕流噴火を4回している。一番古いのがASO1で約27万年前ASO4が一番新しく、9万年前の噴火である。このASO4は凄まじい大噴火で北海道(知床や網走)では火山灰が今でも15センチ堆積している。熊本城の地盤にも40m~70m火砕流堆積物が分厚く堆積している。この堆積物は比較的やわらかい溶岩である。指先は洞穴を指しているが、岩盤が柔らかいので、スコップ等で簡単に掘れる。それに比較して石垣の石は非常に硬い。コンクリートの5倍の強さがある。熊本城の石は金峰山系の山々から切り出したものである。石は輝石安山岩という種類である。


此の露頭は阿蘇溶結凝灰岩である。大昔に阿蘇は大火砕流噴火を何回もしている。北海道で確認できるのは空を飛んだ火山灰である。熊本城の地下で確認できるのは大地を新幹線なみのスピードで流れ下った阿蘇溶岩である。阿蘇溶岩は山口県でも現在確認できるという。一説では阿蘇火砕流堆積物は海面を滑るように進み四国までいったという。熊本地域は4回の阿蘇火砕流噴火と益城の赤井火山の砥川溶岩で日本一の地下水都市になった。赤井火山の火砕流噴火はASO1とASO2のあいだで約15万年前と言われている。この溶岩は砥川溶岩と言われている。砥川溶岩は二の丸駐車場の西側の堀で確認された。なんと地下66メートルの深さに砥川溶岩が堆積している。砥川溶岩がどれくらいの厚さがあるのか、それは調査されていないようだ。

 清正公は石垣造りの名人ではあるが、石垣造りは多くの人手と危険を伴う大変な重労働である。山等から岩石を切り出し、大変重い石をここまで運ぶことは大変な作業である。このような自然の地形をうまく利用して、露頭(崖)を石垣替わりにすると、築城の期間が短くなり、人員も少なく、作業でケガをする職人も少なくなる。熊本城の周囲は5.3キロで非常に広い。城域にはこのように、溶結岩を石垣代わりした所も何箇所か存在する。ここも清正公の知恵の一端を見る思いがする。しかしながら、阿蘇溶岩は輝石安山岩に比べて極めて軟弱な溶岩である。

熊本地震後に自噴するようになったもの(江津湖下流の公園)

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江津湖は清正公が造った河川膨張湖で加勢川の一部になります。平成28年の熊本地震後、上の写真のように地下のエネルギーで自噴するようになりました。現在1.2mの高さがあります。下の写真も同じ所です。以前はこのように2m以上噴き上がるのを目撃することもありましたが、今は安定しています。このように地下水が噴き上がるのを被圧地下水といいます。地下水に圧力かかっているので噴き上がるのです。水前寺公園等の湧水は不圧地下水といい、圧がかかっていません。水前寺江津湖公園の湧水は託麻台地の突端、キワから漏れ出ていると言われています。海の汚染は取り返しつかない状態かもしれません


この伏流水は阿蘇の西麓から20年(諸説あり)の歳月をかけてここで自噴しています。この場所は水前寺江津湖公園(126ha)の広木地区にあります。この自噴の近くに公園を管理するサービスセンターの建物があるので、場所はわかりやすいかと思います。熊本は阿蘇のお蔭で日本一の地下水都市と言われています。平成25年には国連から「命の水最優秀賞」を頂きました。我々生物は水がなくては生きてはいけません。まさしく命の水です。生きていくうえで、一番大事な水を人は大事にしていません。江津湖の湖底や水面にはペットボトルや空き缶など「アリトアラユル」生活ゴミが物凄い量あります。生活ゴミは江津湖に限ったことではありません。世界中でプラゴミが大問題になっています。科学者は早くから警鐘を鳴らしてきましたが、為政者は抜本的な解決の政策をとることはできませんでした。


この自噴も水前寺江津湖公園の広木地区にあります。ここはもともと水田地帯でした。平成8年頃に公園化されました。広木地区には「面白い橋」があります。橋のしたに川はありません。「下江津避越橋」と言います。水前寺公園の参道からここの湧水までは約5㎞あります。参道入口~県立図書館~上江津湖~中江津湖~下江津湖~広木公園まで歩くと良い運動になります。また、水前寺江津湖公園は自然がいっぱいですので、特に土曜日曜は家族連れで大変に賑わっています。最近は色とりどりの小さなテントの花が咲き乱れます。コロナで遠出ができないので近場で家族は我慢しておられるかもしれません。でも水前寺江津湖公園は大変良いところです。