水前寺公園の中にある、出水神社は西南戦争の翌年、明治11年に創設された。神社には細川ガラシャや細川幽斎公等を祀る。お二人は、この神社とどういう関わりがあるのでしょう。神社に女性が祀られるのは少ないようです。ガラシャは肥後に来たのでしょうか。ガラシャは1600年の関ケ原の戦いの前に大阪の玉造で亡くなりました。ガラシャが西軍の人質にならずに炎のなかで死んでいったことが東軍の勝利に大きく貢献することになるのです。ガラシャの息子、忠利公が熊本の藩主になるのは1632年のことです。そういうことで、熊本にくることはなかったと思われますが、この神社にはガラシャの偉業を讃え神として祀られています。辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」です。この詩歌は禅宗的で死に対する潔さを感じさせます。ガラシャは波瀾万丈の38歳の生涯でした。

この建物は細川家の菩提寺の泰勝寺にある、「四つ御廟」です。幽斎公夫婦と忠興公夫婦のお墓です。初代藩主の忠利公が造営したものですが、四つは平等に同じ大きさに出来ています。忠利公の配慮が感じられます。忠利公は非常に聡明な藩主でしたので、「肥後54万石の大大名」に細川家がなれたのも先祖のおかげと感謝していたことでしょう。


この銅像は祖父と孫です。祖父(右)の細川幽斎公が若く見え、孫の忠利公(左)が老けて見えるのが面白いところです。幽斎公は1610年京都で亡くなりました。幽斎公は熊本に住むことはなかったと思われます。秀吉の命で鹿児島に行っていますので、途中で肥後に何日か滞在したことでしょう。幽斎公は島津の藩主とも親密な間柄でした。忠利公は両祖父(明智光秀公、細川幽斎公)の血を引いて非常に優秀な藩主と言われています。幽斎公も忠利公も馬術に優れていたと伝わります。細川家には武田流流鏑馬が伝わっています。忠利公は馬術も免許皆伝で、馬上で朝餉をとることが出来たと言われています。


細川幽斎公は、難しい戦国時代の乱世を知恵と情報網で生き抜きました。足利将軍を皮きりに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。信長公を切腹に追い込んだのは親戚の明智光秀公でした(本能寺の変)明智に味方はせずに、直ぐに家督を忠興に譲り、剃髪したと言われています。光秀公は100%味方してくれると思い込んでいたことでしょう。幽斎公は多くの情報を集め、どちらについたが家を存続することができるか、思い悩んだことでしょう。そして幽斎公のとった決断はどちらにも味方しないことでした。この決断は今から考えると正しい判断だったかと思います。ガラシャや幽斎公の凄い働きもあり、1600年細川家は京都(12万石)から福岡(約40万石)へ、そして1632年、福岡から熊本(54万石)へと大出世することになります。「NHK大河ドラマ麒麟がくる」で細川幽斎公や細川ガラシャがどのようにえがかれるか非常に楽しみです。

このカヤ葺きの建物は「古今伝授の間」と言われています。元々京都の御所にありました。この建物で幽斎公は天皇の弟、八条宮智仁親王に古今和歌集の奥義、秘伝を伝授されました。ときは流れて、大正元年にここに移築、復元されました。和の建物の「古今伝授の間」はここ水前寺成趣園が一番似合います。この部屋から見る風景は素晴らしく、一幅の絵を見るようであります。細川幽斎公の息づかいも感じられる、「古今伝授の間」で美味しい日本茶をいただきませんか。


熊本城は令和1年10月5日から特別公開を始めた。毎日の公開ではなく、基本的に日曜と祝日だけである。令和2年の4月29日から平日も見れる特別見学通路が開通する。初日の5日は世界から多くの観光客が名城、熊本城を見学された。令和3年の春からは、大小天守閣の建物内部に入れるようになる。工事関係者さんの頑張りで少しづつ順調に工事は進んでいる。


熊本城で一番高い、宇土櫓の石垣である。高さは約22mである。熊本城で一番高い石垣が崩落しなかったことは、非常に幸いであった。3年半前の熊本地震では、どんな石垣が崩れ、またどんな石垣が耐えたのであろうか。専門家の見解は出ていないが、地震に強い石垣は、緩やかな勾配で、尚且つ武者返しの石垣が強かったようだ。この宇土櫓の石垣も曲線の武者返しの石垣である。清正公は天下普請の江戸城の築城にもかかわっている。準備する石に対して「ひかえの短い石ではだめだ、小さくてもいいのでひかえの長い石を持ってきなさい」と、長い石が崩れにくいと言われている。清正公は築城の名手、石には非常にこだわりがあったようだ。


この石垣は熊本城で一番有名な大天守台の石垣である。この石垣も崩れなかった。スロープに人が確認できるが、すぐ近くから大天守を仰ぎ見ることができるようになった。本丸では天守閣の工事が急ピッチですすんでいる。


大小天守を東の本丸から撮影した。ご覧のように多くの建築資材等がところせましと置かれている(令和1年10月5日撮影)早く本丸から建築資材等がなくなることを祈るばかりである。令和の天守閣は地震に強い建物に少しずつ生まれ変わっている。この何年かは毎年、甚大な災害が日本を襲っている。災害列島の日本では先ずは、建物を丈夫にすることが重要である。では地震に強い建物はどんなものか。建物は上、頭が重たいと地震に弱いようである。大小二つの天守閣の最上階は30%の軽量化に成功している。


ここも、本丸である。建築資材等が多く置かれているので、本丸のスペースが狭くかんじる。左の大木は清正公のお手植えと伝わる大銀杏である。本丸の角々にも多くの地割れが発生した。本丸周辺は地盤が軟弱と言われている。軟弱地盤は地震にも弱いと考えられる。そこで、天守閣には12本の基礎杭が47mの深さに打ち込んである。ここは本丸であるが、ここには阿蘇火砕流堆積物が40m堆積している。どこのお城も本丸は高いところにあり、熊本城も一番標高が高いここに大小天守閣を設けている。


熊本城の内部に10月から原則、日曜と祝日だけ入れるようになります。建物の内部ではなく、大小天守の東側の本丸の一部と大小天守西側の平左衛門丸の一部に足を踏み入れることが可能になります。上の写真のスロープを観光客は歩いてのぼることになります。スロープの上に大天守の最上階が見えていますが、小天守は木の陰で見えていません。熊本城は観光バスでいらっしゃるお客様が不便に思われるかもしれません。10月1日からバスは上の二の丸駐車場には原則として駐車できません。バスは下の桜の馬場バス駐車場で観光客を降ろします。観光客は片道約15分を歩くか、シャトルバスに乗り二の丸まで行きます。そういうことでお城の入口まで往復約30分かかります。(足がご不自由の方はシャトルバスをご利用ください。)


上の写真は天守の西側、平左衛門丸からの写真です。右の大天守は1600年の関ヶ原の時はほぼ出来ていたと言われている。左の小天守は清正時代か息子の忠広時代かはっきりしない。一説には小天守は小西行長が築城した宇土城から移築したとも伝わる。熊本城は「連結式の望楼天守」といわれている。3年前の地震では小天守の石垣の被害が甚大であった。もし昼間の地震であれば、大惨事になっていた。熊本城のことだけ考えるならば、夜発生したのは幸運であった。2016年の12月31日、NHKの紅白歌合戦の番組で氷川きよしはここ平左衛門丸で「白雲の城」を歌った。氷川きよしは地震から間もない熊本城で「復興への祈り」を熱く歌い上げてくれた。その熱唱を聴いて、涙した県民も多いのではないだろうか。


上の写真はニュース等で非常に有名になった「飯田丸五階櫓の一本石垣」があったところである。櫓も解体してこの近くに保管している。一本石垣も無くなり、石垣の解体も進んでいる。石垣の上に見えるのが、熊本城で一番長生きの楠で、樹齢800年と言われている。残念ながら飯田丸の石垣を近くで見ることはまだできない。なんとなんと「一本石垣」はあと一カ所ある。北西にある戌亥櫓である。この櫓は常時見れるようになっている。なぜ櫓は崩れずに一本石垣で耐えたのであろうか。櫓台の隅石は2㎝程度高くなっている。地震で他の石は崩壊しても隅石は上の櫓の重みが加わって持ちこたえたのである。これを「気負」という。「奇跡の一本石垣」が熊本地震で2カ所の櫓で発生した。これは、正しく肥後石工の技術の高さを物語っているのではないだろうか。


上の櫓は熊本地震でメディアによくとりあげられた飯田丸櫓と勘違いされる人が多いですね。櫓の形が似ているからか。此の一本石垣の東側の石垣は全体的に殆んど崩れた。戌亥櫓の東側と南側は地盤が元々弱いのであろうか壊れ方がひどいようだ。熊本城のある台地は、元来、強い石垣を造れる地盤ではない。弱い阿蘇溶岩が分厚く堆積している。清正公時代の石垣は今回の熊本地震で全然被害がなかったわけではない。熊本城は大袈裟にいえば「400年間被害と修理の歴史」と言うことも出来る。天下普請の江戸城や日本三大名城を手掛けた肥後石工の技術をもってしても軟弱地盤はいかんともしがたいものであろう。

毎回好評の、秋の江津湖フットパスを開催しました。案内人は江津湖を長年散策している。江津湖観光ガイド水守の永田です。集合は県立図書館の南側で、まず始めに東海大学の市川勉特任教授が、水前寺公園の湧水のことや、江津湖の湧水についてお話されました。市川先生は、熊本地域の地下水の調査や研究を長年されている先生です。おかげで面白いお話をたくさん聞くことができました。


上の写真は県立図書館の南側です。図書館周辺は歴史の宝庫であり、伏流水の宝庫です。隣りの市総合体育館には昔70年以上アルコール工場がありました。大きいレンガ造りの工場で、煙突が高くそびえていたそうです。


上江津湖は湧水が豊富で、有名な高浜虚子は「縦横に水の流れや芭蕉林」と詠んでいます。松尾芭蕉も夏目漱石も芭蕉が大好きだったといわれています。熊本県民でもここの芭蕉林を見てない人もいるかもしれませんが、それは非常に勿体ないことです。あっちこっちから阿蘇の伏流水が出ているのを見ると感激しますし、癒されます。下の鳥は江津湖に一番多い水鳥でヒドリ鴨です。



2022年3月江津湖は全国都市緑化フェア―のメイン会場になりますので、全国から多くの観光客がいらっしゃいます。フェアーまであと一年すべきことは、山ほどあるとは思いますが、まずは湖も陸もきれいにすべきです。湧水が多かった明治時代には水前寺公園の池から江津湖まで船で行き来ができていました。緑化フェア―開催を契機に水前寺公園の参道付近から江津湖を屋形舟で行き来したら大変に面白いことと思います。いずれにしても観光客が「わくわく、どきどきする企画」を考える必要があります。


上の銅像は熊本市内の健軍神社の参道(長さ約1000m、幅約23m)にある。この馬は清正公の栗毛の愛馬であろうか。この銅像は清正公を大きく見せるためであろうか、馬が小さく造ってある。「往来で江戸のならず者にぶつかったとしても、帝釈栗毛はさけて歩け」と言われるほど荒々しい馬であったと伝えられている。近くに八丁馬場と言う電停がある。歴史のある健軍神社の楼門から西へ馬の調練場を造り後に神社への参道として寄贈した。調練場の起点となる場所に清正公が植えたと伝わる、大銀杏がある。清正公は銀杏が好きだったのか、熊本城の本丸や加藤神社にも御手植えしたと伝わるイチョウの大木が存在する。


上の銅像は清正公のお墓、本妙寺にある。本能寺の変の翌年に琵琶湖近くの賤ヶ岳で豊臣秀吉と柴田勝家の戦いがあった。この戦で非常に活躍した武将達を「賤ヶ岳の七本槍」と言う。清正公も7人の武将の1人である。この長い片鎌槍で大いに奮戦したのであろう。清正公は賤ヶ岳の戦いで全国的に有名になったと伝わる。賤ヶ岳の戦いの功により、秀吉から3000石を与えられる。


上が一番有名なお城の入口にある銅像である。上の3枚の写真は清正公が甲冑に身を固めている武者姿である。清正公は何に腰掛けているか。わかりますか、猛獣の虎である。朝鮮での虎退治といえば清正公である。秀吉の命令で他の大名も虎狩をしているが、虎狩りは清正公の専売特許になっている。清正公は虎も長い片鎌槍で仕留めたのであろうか。伝説が真実であれば、清正公は槍の名手である。朝鮮征伐の戦いで清正公の猛将のイメージが形作られたのであろう。愛知県名古屋市の徳川美術館には清正公が狩ったと言われる、虎の頭蓋骨が展示してある。400年前、朝鮮半島には虎がいたようである。


この銅像は熊本市の八景水谷公園にある。この写真は他の3枚の画像と違い、武士の普段着の服装です。清正公は非常に用心深い人と言われていますので、天下分け目の関ヶ原までは、甲冑で身をかためることも多かったことでしょう。しかし1600年以降はこのような普段着で肥後の領地を東奔西走して、土木工事の指揮をしたことでしょう。そういう理由で「土木の神様」として崇められることになります。熊本城を案内するガイドも、石垣の説明だけでなく、利水治水など土木の神様清正公の業績を案内する必要がある。


上の写真はどこかお分かりであろうか。ここは本妙寺で清正公のお墓、浄池廟付近である。この大きな石碑は高さ5m横約3m厚さ約1.3mで重さ36トンです。この大石は「浄池公廟碑」と言われ、清正公の事績の大きさを鹿子木量平が熱く語ったものである。死後、清正公は土木の神様として崇められていきます。白川の付け替え、御船川の流路変更など大規模な土木工事を数多く完成させました。いろんな土木築造のなかで、一番凄いものが菊陽町にある鼻ぐり井手であると量平は述べています。


清正公と言えば、熊本城、虎退治、そして土木工事である。土木工事で一番凄い施設が菊陽町にある「鼻ぐり井手」と鹿子木量平はいうのである。しかしながら、清正公が築造して400年間この施設にスポットライトが当たることはなかった。地元の人にもあまり知られてはいなかった。それが平成3年の台風で鼻ぐり井手をおおっていた樹木が倒れ、倒れた樹木を片付けたら、なんとなんとこの遺構が400年ぶりに出現したのである。まさしくこれは大きな驚きであった。NHKテレビをご覧になられたでしょうか、平成28年4月2日「火の国 熊本は水の国か」でタモリはこの鼻ぐり井手の中に下りられた。もちろん水があると歩けないので、用水路の入口を閉めた。この鼻ぐり井出は阿蘇溶岩で出来ていて、約20m掘り下げている。


熊本地震から3年になる4月13日に江津湖フットパスを開催した。当日は大変に天気がよくて、50名の人が参加していただいた。遠くは福岡から参加して頂いた。参加者が多くて主催者としてうれしい限りである。この祠は「希首座のほこら」と言います。細川ガラシャの夫、忠興は人を切った刀に名前を付けていたと言われています。忠興は大徳寺の希という修行僧を切り殺しその刀に希首座(きっそ)という名前をつけ祀ることにしたのです。戦国時代の猛将、流石の細川忠興も修行僧を殺したので、気持ちが悪かったのか、祀ることにしたのでありました。


この句碑は、夏目漱石の「ふるい寄せて白魚くずれんばかりなり」である。漱石は明治29年五高の先生として熊本にきている。彼は、生涯約2600句の俳句を詠んでいるが、熊本時代に約1000句つくっている。また、漱石はボート部の部長をしていたので、艇庫がある江津湖にはよく足をはこんだと考えるのが自然であろう。当時の艇庫は江津斉藤橋付近にあった。


この川はみずなし川の健軍川である。ここから1㌔上流には水は無く、ここから600m上流附近から忽然と湧水が見られる川である。雨が降らないときは上流域には水はない、しかし大雨が降ると健軍川は物凄い勢いで水は流れる。夏には毎年のように多数のアユを見ることができる。アユは縄張りの習性があるが、江津湖のアユは群れている。

先に見えているのがゴール地点の下江津湖である。ここの下江津湖で夏目漱石は友人と泳いだり、ボート競漕をして楽しい時間を過ごしたようである。今も熊大や学園大のボート部の練習湖になっている。現在、江津湖水守として非常に憂慮しているのは江津湖の湧水量の減少である。白川中流域の水田の増減と湧水量は密接な関係がある。白川中流域とは大津町と菊陽町をいう。大津町や菊陽町の市街化が進み、水田の耕作面積も大幅に減った。白川中流域の市街化と減反で江津湖の湧水量は大きく減った。日本人が昔と比べて米を食べなくなった。米の消費量は57年前と比較して半分以下である。これでは水田の減反をせざるを得ない。我々日本人は健康によい、お米をもっともっと食べなければならない。

益城町の震災遺構(国の天然記念物)3カ所を訪ねて


2016年4月14日と16日の2回、震度7の地震が益城町を襲った。余震も長い期間続いた。震度1以上の余震は、2年間でなんと約4500回を記録した。県下では多くの人が亡くなった。熊本地震で気になったことは、直接死の4倍以上の人が震災関連死であることだ。行政の取組みで震災関連死を減らすことが出来なかったのか、非常に残念な結果になった。ここは震災遺構の一つで潮井神社である。建物から1mぐらいの近さに神木の大榎があった。神木の真下の地盤で右横ずれ(地面の破壊)を起し神木は倒れた。地表にあらわれた地表地震断層の長さは約8m、縦ずれの沈下は約70㎝である。


上の写真は神木の根っこがいくつもの石をつかんでいる画像である。大きい石は1トンぐらいであろうか。潮井神社の神木と言われるものであるが、3年が経過し木自体がだんだん腐れかけている。折角「震災遺構が国の天然記念物」に認定されたわけで非常に残念なことである。石をつかんだ根っこも腐れ、神木は近い将来、影も形もなくなるのであろうか


この川は活断層の名前にもなっている、布田川です。源流域は熊本地震で被害が大きかった西原村である。布田川と断層は関係があるのか。今後の調査で関係性がわかるかもしれない。崖に赤土が見えているが、下が、ASO3の地層で今から約12万年前に噴火した阿蘇火砕流堆積物である。その上にASO4(9万年前)の溶岩が堆積している。熊本は阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇火砕流堆積物)と赤井火山で出来た砥川溶岩のおかげで「日本一の地下水都市」になったと言われている


上の画像は堂園地区の畑、あぜ道がクランクになっているのがよくわかるかと思います。この農地は、なんと驚く2m50㎝の右横ずれ(地面の破壊)が発生したと言われています。堂薗の横ずれが一番大きい地表地震断層になりました。近くにあった、3トンの石碑が8mも放物線を描くようにぶっ飛びました。地震の凄まじい破壊力を感じないわけにはいきませんね。堂園地区は建物の7割が倒壊しました。


上の写真は谷川地区のある自宅(現在は益城町所有)の敷地を上空から撮影したものです。この屋敷には、不思議な現象が現れています。ここの敷地内で地面が上がったり下がったりしています。横ずれが2カ所、縦ずれが2カ所確認することができます。赤い点線がVの字なっていますが、Vのところの土地が隆起しました。上の左横ずれ断層のところが約80㎝あがりました。下の右横ずれ断層のところが約40㎝上がりました。同じ敷地内で地表に出た地表地震断層は、国内外でも極めて珍しく貴重な共役断層です。共役断層とは90度程度、断層の向きが逆向きを示すものを言います。ここにも、激震が発生しましたが、瓦は1枚も落ちませんでした。なぜ、被害がなかったのか、それは地震前に耐震補強をしていたからです。少ない費用で、被害を少なくすることはできます。家具や冷蔵庫などは凶器になりますので、頑丈に固定してください。常日頃、あらゆる災害に細心の用心を

 

 

 

 

熊本城は地震に強い天守閣になることでしょう


修復中の熊本城の天守は震度7には耐えられるように地震対策が幾つも施されている。地震に弱い建物は頭、屋根が重たいものである。昭和35年に完成した熊本城には瓦の下には土がのっていた。令和の熊本城には瓦の下に土はない。屋根を軽くするために色々な工夫をしている。天守閣の最上階の屋根部分は元々は90トンの重さであった。修復後は30%減の60トンになる。このように最上階を軽くすることで、地震に強い天守にすることができる。


熊本城には、地震に強くするために、7種類の耐震装置や制振装置を設置すると言われている。上の写真はクロスダンパーと言われる制振装置である。熊本地震前、熊本城ガイドは天守閣の建物内に入って観光ガイドをしていた。建物にいる時地震に遭遇したらと考えると恐ろしくなる。新天守閣が完成後はまた、建物の中に入って熊本城のガイドをしなければならない。お城は地震に強くなるので、観光客も熊本城ガイドも安心して天守に入ることができる。天守閣に上がると東の方角には阿蘇の噴煙も見える日がある。西は雲仙普賢岳を見ることができる。天守閣の最上階から見る景色は素晴らしい。完成が待ち遠しい

 

 


この石垣の上にあった、櫓名がわかりますか。我々熊本城ガイドでも、建物が無くなると分かりにくいものである。ここの櫓名はニュースでも大変に有名になった1本石垣の飯田丸5階櫓である。今後、石垣をはずし新元号が始まるころには、かなり石垣の解体がすすんでいると思われる。ではなぜ、地震等で一本石垣になるのであろうか。それは、角石を2センチ程度高く造っているからである。この工法を気負という。それでも、一本石垣になるのは大変不思議なことと言おうか。奇跡的な出来事であろう。驚くことに今回の熊本地震で熊本城は飯田丸櫓と戌亥櫓の二つが一本石垣になった。一本石垣について、別の見方をすれば、石垣を造った石工の技術が高かったからである。

熊本城の石垣は地震で3割に被害がでました


熊本城の城域全体の積石は約30万個でその約3割に積み直しが必要と言われています。この写真のような置場が熊本城域のあっちこっち設けられています。400年前の江戸時代とは大きく異なり、石工が少ないので修理に長い年月を要すると言われている。熊本城は築城の名手、加藤清正公が造ったが、この400年の間に何回も地震や大雨などで被災を繰り返している。であるならば、清正公はお城造りの名人ではないのではないか。熊本城は標高約50mの茶臼山に築城されている。茶臼山には阿蘇山からの火災流堆積物(阿蘇熔岩)が約40m~70m堆積している。熊本城の下の地盤は阿蘇の弱い溶岩で出来ているので石垣等が崩壊しやすい。井戸や堀の掘削工事は簡単に出来たかもしれない。熊本城には阿蘇溶岩と砥川溶岩が堆積している。


この石は石垣の裏側に入っているものである。石垣の裏側にあるので、裏込め石とかぐり石と言われている。清正時代のぐり石は川原の石を使用している。物凄い量のぐり石を河原から運んだことになる。大勢の人手が必要であったことだろう。明治時代の修復には石垣に使用される、輝石安山岩を小さく割ったぐり石を使用している。石垣の裏側にぐり石を入れる理由は水はけを良くするためである。河原の石が水はけはよいと言われているが、地震にはどちらがいいのか、通説はない。


上下の写真を見てください。此の通りは、昼間は多くの観光客で賑わうところである。熊本地震は2回とも夜に起きたので人間がケガをすることはなかった。もし地震が昼間に発生していれば、多くの死傷者が出ていたことであろう。夜の地震で非常によかった。この写真を見ると涙が出てくる。

清正公が「土木の神様」と言われる理由とは


清正公は長い戦乱の世で荒廃した肥後の再建を領内の全土で行った。町づくり、道路整備、治水や利水の灌漑用水等等、30数カ所の事業の中から河川の付け替えを見ていきましょう。上の写真は3つの川が合流している所である。下の案内板に御船川の字ある。現在御船川は嘉島町の上島附近で緑川と合流している。清正公が肥後に来る前は上の写真の矢形川(右側)と御船川は合流していた。


下の写真2枚は嘉島町上島で緑川と御船川が合流している所である。


わかりにくいかも知れないが、下の写真の右側が大河の緑川である。緑川は名前のように緑色をしたきれいな一級河川です。上流の甲佐町に鵜の瀬堰がありますが、その堰も清正公が築造したものと言われています。


下は加勢川(左)と木山川(右)が合流している写真です。ボートは清正公が築造した河川膨張湖の江津湖(加勢川)に向かって進んでいます。江津湖の周辺は大昔から低湿地帯で稲作には不向きな土地でした。400年まえに肥後の藩主になった清正公は全長12キロの頑丈な塘を川尻まで造りました。塘は普通、両岸に造りますが、この川には右岸しか塘を造りませんでした。南側の左岸に塘がないのは鹿児島の島津対策と言われています。片塘を造ることにより西側の土地は水田地帯に生まれ変わり、東側は河川膨張湖(江津湖)に生まれ変わりました。江津湖には1日47万トンの阿蘇からの伏流水が沸いています。