4月26日から天守閣の内部に入れる予定であったが、コロナの影響で延期されることになった。4月26日から多くの観光客で賑わうであろう天守閣内部が待ったをかけられている。非常に残念ではあるが、コロナは人命に係わることなので延期もやむを得ない。人命と言えば、熊本地震では前震も本震もたまたま夜であったので、人的被害はなかった。もし昼間の地震ならば多くのケガ人が出たであろう。今度、完成した熊本城天守閣は非常に地震に強い造りになっている。天守閣にかかる負荷を約3割低減させる装置をいろいろな所に48カ所に設置した。各種の制振装置や耐震装置は7種類にもなる。クロスダンパーや耐震ブレースなどなど。


熊本城は戦国時代の智将である、加藤清正公により築城された。広さはなんと、周囲5.3キロ、東京ドーム21個分の広さを有する。天下人でもない清正公がこれだけ大きい城郭を造れたのは奇跡的と言えるであろう。さて、清正公の熊本城は1607年に完成したと言われている。清正公の熊本城は1877年の西南戦争で焼失した。熊本地震で激しく傷んだ天守閣は1960年に完成したものである。令和3年に出来た天守閣は三代目となる。清正公の天守閣は木造建築なので、重量は軽かったが、2代目は鉄筋コンクリート造で重かった。6500トンとも7000トンとも言われている。では地震にはどんな建物が強いのでしょうか。屋根、頭が軽いほうが強いと言われている。三代目の天守閣の最上階は90トンを60トンに30トン軽くしている。30%以上も軽くするのは大変な技術が必要であったと想像される。大小天守閣の全体の重さは5700トンと言われている。


熊本城は茶臼山という軟弱地盤に築城した。茶臼山は阿蘇の溶岩(阿蘇溶結凝灰岩)が分厚く堆積している。天守閣のある本丸には40m阿蘇溶結凝灰岩が堆積している。この溶岩は弱いので天守閣の基礎杭は47mの深さにいれている。軟弱地盤は一長一短があります。メリットは籠城に欠かせない井戸などの掘削は楽だったかもしれない。だから120基も城内に掘ったと想像する。一方デメリットは何が考えられるか、それは地盤が弱いことです。弱い地盤の上に石垣を造り、その上に建物を造れば地震に強い物にはなりませんね。熊本地震で石垣や建物の被害がひどかったのは地盤の弱さが原因かもしれません。


三代目の天守閣は耐震装置や制振装置を見れるところがあります。これも熊本城の見所の一つです。小天守の穴蔵に井戸があります。ここの井戸には何が溜まっているでしょうか


当日は早くから雨の予報でしたので、参加者は10名ぐらいかな、と考えていましたが、なんと33名ご参加いただきました。また何人かの方から後日連絡があり、「楽しかったです。また参加させてください。」と本当にガイド冥利につきるお言葉を頂きました。さて日本一の地下水都市熊本その代表、シンボルが江津湖です。水前寺江津湖湧水群は平成の名水百選に認定された。平成20年には「日本水大賞グランプリ」を熊本市が受賞した。平成25年には国連の水管理部門で「生命の水」最優秀賞に輝いている。これは恵まれた水を涵養、保全して限りある地下水を後世に守り伝える行政(熊本市など)の取組みが高く評価されたものである。江津湖は熊本城から南東に約5kmの位置にあり、長さ2.5キロ、周囲6キロ、湖面の面積50ha(東京ドーム10個分)の広さを誇っている。加勢川の一部で中央部がくびれたヒョウタン型をした河川膨張湖である。水温は年間を通じて18度ぐらいで、湧水量は昭和37年日量、約90万トン(毎秒10トン)ありましたが、現在は激減し日量約47万トン(2018年の平均)と約半分になった。上江津湖の日量は46.5万トン、中江津湖の日量は約7.4万トン、下江津湖はここ5年湧出ではなく、-7.7万トンで、浸透している状況です(上の画像は加勢川と石畳、いつも川の水はきれいに澄んでいるが雨で少し濁っていた)

夏目漱石の句碑「ふるい寄せて白魚崩れん許かりなり
漱石は明治29年(1896年)第五高等学校の教授として熊本にきています。熊本時代、小説は書かずに九州各地に旅をして多くの俳句を詠んだ。熊本での4年3ヶ月の間に、約1000句の俳句を残した。江津湖でも四手網漁でたくさんの白魚(しらうお)がとれたか。漱石は明治41年2月9日の九州日日新聞に水前寺と江津湖のことを書いている。彼は水前寺公園や江津湖が頗る気に入ったらしくよく足をはこび俳句もたくさん作っている。「湧くからに流るるからに春の水」は漱石が作った約2600句の中で最高傑作と言われている。第五旧居の犬にまつわる、漱石と警官のやりとりは非常に面白い。警官に漱石いわく「うちの犬は利口で人相が良いひとには吠えかかるはずがない、噛みつかれるのは人相が悪いか、犬に敵意があるもので犬だけを責められない」と、妻鏡子さんの後日談によると「ある夜、犬が激しく吠えていた。家に駆け込んだ漱石は顔が真っ青でズボンはやぶれていた」と述懐している(あまり利口な犬ではなかったか「笑い」)

あと200mでゴール地点です。みなさん3キロを「止まっては歩き止まって歩き」されましたので大変だったとおもいます。最後はやっと雨も上がりました。下江津湖に来ました。上江津湖と比較すると色々なところが異なります。広さでは下江津湖が3倍の大きさになります。残念なことですが、下江津湖は湖の透明度が低く、あまり澄み切ってはいません。湧水量が少ないので綺麗な水とは言えませんね。夏目漱石は熊本時代、五高主催の下江津湖でのボートレースに出場している。またレースの審判部長等もしていた。ここで友人と水泳をして、楽しい時間を過ごしたようだ。スポーツマンの漱石にとって江津湖は「命の洗濯ができる、至福のひととき」だったかもしれない。

 熊本市の指定外来魚6種類は、●オオクチバス(ブラックバス)、●ブルーギル、●カダヤシ、●ナイルティラピア、●ジルティラピア、●カムルチー熊本市では、平成27年度に電気ショッカー船を導入して、平成27年度から魚類の生息状況調査を、平成29年度からは、指定外来魚の駆除を始めました。熊本市の条例により、江津湖地域に6種の指定外来魚を放すことはできません。また、釣りあげた指定外来魚は再放流(リリース)も勿論禁止です。そのため、市が指定する回収生簀か、回収箱に入れる必要があります。(因みに駆除で多いのはティラピア)

下江津湖の今昔 南の正面に小さな島が見えますね。あれが下江津湖に元々あった中の島です。上江津湖の中の島は人工の島です。あの中の島に昔、茶店があり、ボートを漕いで渡りかき氷を食べていた。南門からはわかりにくいですが、南東にある島が「竜の鼻」です。元々は陸続きでしたが水の流れが悪いので島になるように切り離しました。

動物園の南門付近で阿蘇溶岩と砥川溶岩の説明 益城町の赤井地区で約15万年前に火砕流噴火した赤井火山の砥川溶岩です。この「砥川溶岩と阿蘇溶岩」によって、熊本は日本一の地下水都市になったと言われています。溶岩が冷えて固まる間に火山ガスがぼこぼこと穴をあけ、水をため込みやすいスポンジ状の溶岩になった。

自噴の湧水を見てください。この「突き井戸」は砥川溶岩層まで掘り、深さは40mといわれています。熊本地震の時はここに行列ができた。私も20年以上この伏流水を飲んでいます。

健軍水源地は特異な水源 動物園の正面玄関の東側にコンクリートの配水池が見えますが、これは健軍水源地です。ここには2池の配水池があり2池で24000㎥をたくわえることでできます。熊本市は日量、22万㎥を供給していますが、その4分の1(66000㎥)をこの健軍水源地だけで賄う能力があります。

取水井戸は11本で7本が自噴井戸です。井戸の深さは39m~60mです。健軍水源地にある5号井は凄すぎる井戸です。一日の自噴量は15000トンで2㍑のペットボトルに換算すると750万本に相当する。小学校のプールに換算すると50杯分になります。6万人の人口ならこの5号井だけで賄える。因みに熊本市水道局は39カ所の水源地と99本の井戸を管理しています(平成29年度末)

 健軍水源地の5号井(深井戸40㍍の深さ)は第二帯水層から水をひいている。第一帯水層(浅い層)と第二帯水層(深い層)の違いは何か、それは圧力がかかっているかどうか。第二帯水層(深い層)は被圧地下水であるが、第一帯水層は不圧地下水である。水前寺公園や江津湖は第一帯水層からの湧水で不圧地下水と言われている。熊本市水道局が管理する井戸の7割は砥川溶岩層に3割は阿蘇溶結凝灰岩層に入れている。

※参加された皆さんのご協力で、ケガもなく無事に江津湖フットパスを開催することが出来ました。皆さんに心から感謝を申し上げます。コロナが終息していれば10月9日(水前寺公園参道スタート)開催したいと考えています。有難うございました。 熊本面白倶楽部 代表 永田

 

 


国指定重要文化財の長塀修復が令和3年1月29日に完了した。長塀は平成28年の熊本地震により、一部が倒壊するなど全長にわたって被災したため、平成28年度に解体を行いました。熊本地震以前に戻すため、平成31年2月から復旧工事を行いました。工事期間は約2年間を要しました。熊本城には13の国指定重要文化財がありますが、長塀が一番目の重文復旧になります。塀の高さは2.4メールの木造塀です。白と黒の242mにも及ぶ長塀と桜がなかなかの風景であります。外堀の坪井川沿いからの景色は絵になります。長塀下のグリーンの芝生を早く歩けるようになるといいですが、まだ先かもしれません。

2015年の台風15号では西側約80メートルが傾き、熊本地震では東側80メートルが倒壊しました。長塀は直線的塀なので台風や地震等には弱いと言われています。下の画像は城の内側から撮ったものです。今度の復旧にあたってはステンレス製の筋違い材(斜めの部材)で補強した。この補強工事により、台風や地震等に耐える力が格段にアップしました。城内の控え石柱を近くで見ることはまだ出来ませんが、坪井川沿いからは復旧が進む熊本城を体感していただけると思います。

長塀がある「竹の丸」は清正公が藩主として入国したころは、大河の白川が流れていた。加藤時代に川を掘りとし、長塀の内側は竹之丸として熊本城を造成工事した。この周辺はもともとは大河で低かったので、17m盛土している。日本の城のなかでは国内最長級とされる長塀は内側から控え石柱で支えられている。石柱の68本のうち、40本は折れたがボルトでつなぐなどして修復した。屋根瓦には細川家の家紋九曜紋が刻まれている。約7割の木材や屋根瓦は元のものを再利用した。長塀は東西に242mの塀である。西側は馬具櫓の石垣と接している。馬具櫓の石垣も痛みがひどいがまだ手が付けられていない。長塀の解体作業を含む復旧工事費は約2億9400万円である。


毎回、大好評の江津湖フットパスを春も開催いたします。今度の4月17日も江津湖フットパスのスタートは県立図書館玄関付近スタートを予定している。いろいろなコースで水前寺江津湖フットパスを開催してきたが図書館スタートが一番人気が良いようである。下の画像は図書館の敷地内にある「希首座の祠」である。細川ガラシャの夫、細川忠興は大徳寺の修行僧を刀で切り殺したと伝えられている。


その刀が下の刀である。細川忠興は刀に希首座(きしゅそ)と命名した。大徳寺の僧を殺したので、怖いことが起こり、流石の忠興も気持ちがわるくなり、この刀を祀るようにしたと伝えられている。そういうことで毎年2月17日に希首座祀として、祀ることとした。


熊本面白倶楽部が企画する江津湖フットパスは参加者の日頃の行いが良いのか、毎回非常に天気がよい。参加者のみなさんが気持ち良くフットパスを満喫されているのがよくわかると思います。

空の色が青空だと江津湖の色も青に見えて非常にきれいに見える。要するに空の色が江津湖に映るのである。

江津湖フットパスにご参加されませんか、非常にたのしいと思います。参加料は700円です。手に入りにくい画像や資料が充実していますので、ボランティアガイドさんには非常に為になるかと思います。毎回キャンセル待ちが起こるほどですので、早めにご予約ください。(予約090-2858-4760)今回の定員になりました。ありがとうございました。次回は10月9日を予定しています。


 令和2年6月1日より第二弾特別見学通路(南コース)から毎日、入城が出来るようになりました。地上約6mの高さの素晴らしい空中回廊が熊本城に完成しました。これまでとは違った高さ、角度、距離で、熊本城の天守閣や石垣を見ることが出来るようになりました。今しか見られない熊本城に是非お越しください。特別見学通路は全長350mで檜を使用しています。熊本のヒノキ材は良い香りがします総工事費は約17億円かかりました。熊本城を築城した加藤清正公も空中回廊のあまりの立派さに天国で驚いておられることでしょう


二様の石垣(高さ16m)の上に屋根部分が少し見えていますが、これが本丸御殿であります。本丸御殿は平成20年に54億円で完成しました。御殿は豪華絢爛で素晴らしい造りになっています。二様の石垣をご覧ください。右側の石垣が清正公時代の石垣と言われています。左側の石垣が傾きが急で細川時代のものと言われてきましたが、加藤忠広時代の築造という説もございます。ここから見える高石垣は3か所とも曲線を描いています。「武者返しの石垣」と言われています。また扇の勾配とも言われ、地震にも強いと言われてきました。大天守が見えていますが、この南の方角からは小天守は見えません。日本には多くのお城がありますが、熊本城は質実剛健な城になっています。是非、特別見学通路(空中回廊)から天守閣をご覧ください。水前寺清子が熊本地震後、「熊本城」を歌っています。残念ながら、全国的なヒット曲にはならなかったのですが、なかなか良い歌です。私は熊本城ガイドをしていますが、ここで「熊本城」をアカペラでうたいます。歌詞に流石、大地の揺るぎにも耐えたる石垣、武者がえし」とあります。


東側にある櫓群は国の重要文化財に指定されたもので、貴重な櫓です。建物の向こう側は20mぐらいの高石垣ですので、櫓が崩壊しないようにこちら側からロープで引っ張っています。ぐり石を沢山入れてありますが、これはじゃかご(ふとんかご)といいます。ぐり石は石垣の裏側に入っている石です。

ここは、本丸御殿の地下で、くらがり通路と言います。本丸御殿は平成20年に完成したと前述しました。54億の金額がかかっていますので、見応え、見るところがたくさんあります。くらがり通路もその一つです。上の写真を見て下さい。柱と柱の間が白く見えますが、藩主はここから階段を上って豪華絢爛の御殿に入って行かれました。石垣をご覧ください。本丸御殿の石垣だけは目地漆喰が施してあります。

「適材適所という四文字熟語」がありますが、元々は建築での木材の使い分けが語源でした。適した材木を適したところに使用する。では、柱材にはどんな木が適するか、適する柱材はケヤキ材です。では梁材は?、赤松が非常に適しているといわれています。石垣の一番上(てんば石)の材はどうでしょう、石垣の上は、湿気があるので、水に強い栗材が適していると言われています。繰り返しになりますが、柱材は垂直の状態で上からの重量に耐えることが要求されます。梁は材を横にした状態で上からの重さを受け止めなければなりません。昔の宮大工は試行錯誤をしながら、適材を探したことでしょう。適材適所の言葉に宮大工の知恵と苦労が偲ばれます。そして、本丸御殿は「適材適所」どおりに建造しています。


熊本城には「なぜや不思議」がたくさんありますが、「最大のなぜ」は異常なまでに井戸の数が多いことです。往時は120基以上あったと言われています。なぜ、120基も井戸を掘る必要があったのでしょうか。大変に不思議です。これから紹介する3基は本当に素晴らしい井戸です。熊本城で一番の高石垣は宇土櫓の石垣(約21m)ですが、3基は約2倍の石垣であります。観光客は井戸の深さによく怖いと言われます。では井戸のなにが素晴らしいのか、【①40mの深い井戸の石垣を綺麗に整然と積み上げていること。②井戸の形を円形にするために小さい石を綺麗に割っている。③井戸の水が漏れないように「うちこみはぎ」ではなく、「切込みはぎ」の石垣になっていること。】

この井戸は天守閣の近くの本丸にある井戸です。この井戸の南にも井戸があります。北の小天守の建物の中にも井戸があります。三つとも深さは40mぐらいと言われています。三基とも広くて深い井戸で見応えがあります。この井戸には水がありますが、南の井戸は現在、ガイドが確認できませんが水はあるとのこと。北の小天守の建物の中の井戸には水は溜まってません。令和三年の春には天守閣の建物の中に入れますので、小天守の井戸を見にきてください。熊本城の工事は着々と進んでいます。今しか見られない熊本城の姿を見に来てください。心よりお待ちいたしております。

令和2年10月3日に本丸から大小天守閣を写したものである。小天守側に足場があるが12月21日には無くなった。令和3年の3月には天守閣の工事が終わる。令和3年の4月14日で熊本地震から5年になる。4月26日には大小天守閣の内部に入れるようになる。熊本城全体の修理の完了は2038年の予定であるので、まだまだ長い年月がかかる。しかしながら大小天守閣の修理が終わり、天守閣の内部に入れるようになるのは大きな喜びである。大林組さんはじめ、多くの工事関係のみなさんの頑張りに敬意をあらわすものである。もちろん、熊本城総合事務所、調査研究センターのみなさんの頑張りも忘れてはならない。令和の天守閣は地震に非常に強いと言われている。日本の名城、熊本城に全国から多くの観光客がいらっしゃることを心から祈るばかりである。(大小天守閣の復旧の総工事費はなんとなんと85億円)

 

熊本面白倶楽部は、観光関係の旅行会社やバス会社を応援します。平成28年4月の熊本地震では、熊本城の石垣や櫓などに甚大な被害がでました。石垣は全体の1割が崩れ全体の3割は修理が必要といわれています。復旧には20年の歳月がかかると言われていましたが、大きくかわりました。熊本城全体の復旧工事が終わるのは2052年とのこと。この櫓は未申櫓といいます。櫓も、その下の石垣も大きな被害はありませんでした。清正公の石垣は曲線、カーブしているのが特徴です。武者返しの石垣と言われ、地震等には強いと言われています。修理が少しずつ進む、熊本城に是非お越しください。

水前寺江津湖公園でのガイド風景です。公園の湖水は、阿蘇からの伏流水で、20年前の雨や雪などが阿蘇草原に浸透したものです。地下を長い歳月をかけて旅をする、地下水に何かロマンを感じますね。水前寺江津湖公園は熊本城から南に約4㎞の距離にあります。公園の湖面の面積は50ヘクタールで長さ2.5㎞、周囲6㎞にもおよびます。湖水は阿蘇からの湧水ですので、透明感のある湖になっています。2022年の3月19日から2か月間、水前寺江津湖公園で全国都市緑化フェアーの大イベントが開催されます。熊本面白倶楽部が、皆さんのお越しを心からお待ち申し上げております。

上の写真は水前寺公園です。水前寺公園は熊本地震で、池の水がすぐに無くなりました。しかしどうでしょう、池の湧水は徐々に増えていきました。この一連の自然現象は非常に不思議なことです。地下水の専門家の見解もいろいろです。地震によって、地下水の道が変化したのでしょうか。現在は地震前と同じような湧水があります。細川幽斎公やガラシャとゆかりのある水前寺公園に是非お越しください。


上下の写真は熊本地震で有名になった、益城町の堂園の写真です。人が歩いている下に、布田川断層が地表に現れました。地表地震断層といいます。下の写真をよく見てください。緑のあぜ道は一直線でしたが、左右に2m50㎝大きくずれました。堂園では右横ずれ断層が発生しました。堂園地区では約7割の建物が崩壊したと言われています。布田川断層帯の近くにあった、3トンの記念碑は驚くことに、8m空を飛んだといわれています。熊本地震のエネルギーの凄まじさを感じます。この地震で多くの人がなくなりました。日頃からいろいろな災害についてよくよく考え、準備をしなければなりません。「自分の命は自分で守る」です。


寺田虎彦は「天災は忘れたころにくる」といい警鐘を鳴らしていますが、現在はどうでしょう。毎年何回も想定外の災害が人類を襲っています。このような、災害が多い地球にしたのも人間でしょう。災害で大事な命を落とさないように、しつかり防災、減災の知識を体得する必要があります。天災は必ず、繰り返しやってきます。

2022年の3月~5月にかけて「全国都市緑化フェアー」が水前寺江津湖公園などで開催されます。全国から大勢のお客様がいらっしゃいます。熊本市民あげて、この一大イベントが大成功するように、最善を尽くしたいものである。さて、水前寺江津湖公園の売りは何か、それは地下水ではないでしょうか。国連も認めた、地下水都市熊本をPR、宣伝する絶好の機会と思われます。江津湖からの素晴らしい夕日を全国のお客様に是非見ていただきたいものです。

水前寺江津湖公園は広さ、126ヘクタールで、なんと東京ドーム27個分の面積がある。遊歩道は長さ約5キロにもなる。この湧水は公園の南にあたる、広木地区にある自噴の湧水である。広木地区にはこういう自噴が3か所、点在している。公園全体の一日の湧水量は47万トンである。地下水都市熊本の代表、シンボルが水前寺江津湖公園である。

この建物は県立図書館である。この池からも、阿蘇からの伏流水が大量に湧いてくる。明治の有名な俳人、高浜虚子は「縦横に水の流れや芭蕉林」と詠んだ。水前寺江津湖公園の湧水は託摩台地の突端、際から漏れ出ている。阿蘇に降った雨などが20年の歳月、時間をかけてここで湧いているのである。湧水があると「夏は涼しく冬は暖かい」と言われている。

水前寺公園はいつ来ても趣のある大名庭園です。熊本地震ではこの池は、ほとんど水がなくなりました。それが、どうでしょう、不思議なことに池の水が徐々に増えていきました。地震後すぐに、大量の水を池に入れましたが、ザルに水を入れるがごとくに池に水はたまりませんでした。そういうことで、水前寺公園の池は謎、不思議がいっぱいです。水前寺公園の透明感のある湧水を是非、見に来ていただきたいと思います。

水前寺公園の中にある、出水神社は西南戦争の翌年、明治11年に創設された。神社には細川ガラシャや細川幽斎公等を祀る。お二人は、この神社とどういう関わりがあるのでしょう。神社に女性が祀られるのは少ないようです。ガラシャは肥後に来たのでしょうか。ガラシャは1600年の関ケ原の戦いの前に大阪の玉造で亡くなりました。ガラシャが西軍の人質にならずに炎のなかで死んでいったことが東軍の勝利に大きく貢献することになるのです。ガラシャの息子、忠利公が熊本の藩主になるのは1632年のことです。そういうことで、熊本にくることはなかったと思われますが、この神社にはガラシャの偉業を讃え神として祀られています。辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」です。この詩歌は禅宗的で死に対する潔さを感じさせます。ガラシャは波瀾万丈の38歳の生涯でした。

この建物は細川家の菩提寺の泰勝寺にある、「四つ御廟」です。幽斎公夫婦と忠興公夫婦のお墓です。初代藩主の忠利公が造営したものですが、四つは平等に同じ大きさに出来ています。忠利公の配慮が感じられます。忠利公は非常に聡明な藩主でしたので、「肥後54万石の大大名」に細川家がなれたのも先祖のおかげと感謝していたことでしょう。


この銅像は祖父と孫です。祖父(右)の細川幽斎公が若く見え、孫の忠利公(左)が老けて見えるのが面白いところです。幽斎公は1610年京都で亡くなりました。幽斎公は熊本に住むことはなかったと思われます。秀吉の命で鹿児島に行っていますので、途中で肥後に何日か滞在したことでしょう。幽斎公は島津の藩主とも親密な間柄でした。忠利公は両祖父(明智光秀公、細川幽斎公)の血を引いて非常に優秀な藩主と言われています。幽斎公も忠利公も馬術に優れていたと伝わります。細川家には武田流流鏑馬が伝わっています。忠利公は馬術も免許皆伝で、馬上で朝餉をとることが出来たと言われています。


細川幽斎公は、難しい戦国時代の乱世を知恵と情報網で生き抜きました。足利将軍を皮きりに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。信長公を切腹に追い込んだのは親戚の明智光秀公でした(本能寺の変)明智に味方はせずに、直ぐに家督を忠興に譲り、剃髪したと言われています。光秀公は100%味方してくれると思い込んでいたことでしょう。幽斎公は多くの情報を集め、どちらについたが家を存続することができるか、思い悩んだことでしょう。そして幽斎公のとった決断はどちらにも味方しないことでした。この決断は今から考えると正しい判断だったかと思います。ガラシャや幽斎公の凄い働きもあり、1600年細川家は京都(12万石)から福岡(約40万石)へ、そして1632年、福岡から熊本(54万石)へと大出世することになります。「NHK大河ドラマ麒麟がくる」で細川幽斎公や細川ガラシャがどのようにえがかれるか非常に楽しみです。

このカヤ葺きの建物は「古今伝授の間」と言われています。元々京都の御所にありました。この建物で幽斎公は天皇の弟、八条宮智仁親王に古今和歌集の奥義、秘伝を伝授されました。ときは流れて、大正元年にここに移築、復元されました。和の建物の「古今伝授の間」はここ水前寺成趣園が一番似合います。この部屋から見る風景は素晴らしく、一幅の絵を見るようであります。細川幽斎公の息づかいも感じられる、「古今伝授の間」で美味しい日本茶をいただきませんか。


熊本城は令和1年10月5日から特別公開を始めた。毎日の公開ではなく、基本的に日曜と祝日だけである。令和2年の4月29日から平日も見れる特別見学通路が開通する。初日の5日は世界から多くの観光客が名城、熊本城を見学された。令和3年の春からは、大小天守閣の建物内部に入れるようになる。工事関係者さんの頑張りで少しづつ順調に工事は進んでいる。


熊本城で一番高い、宇土櫓の石垣である。高さは約22mである。熊本城で一番高い石垣が崩落しなかったことは、非常に幸いであった。3年半前の熊本地震では、どんな石垣が崩れ、またどんな石垣が耐えたのであろうか。専門家の見解は出ていないが、地震に強い石垣は、緩やかな勾配で、尚且つ武者返しの石垣が強かったようだ。この宇土櫓の石垣も曲線の武者返しの石垣である。清正公は天下普請の江戸城の築城にもかかわっている。準備する石に対して「ひかえの短い石ではだめだ、小さくてもいいのでひかえの長い石を持ってきなさい」と、長い石が崩れにくいと言われている。清正公は築城の名手、石には非常にこだわりがあったようだ。


この石垣は熊本城で一番有名な大天守台の石垣である。この石垣も崩れなかった。スロープに人が確認できるが、すぐ近くから大天守を仰ぎ見ることができるようになった。本丸では天守閣の工事が急ピッチですすんでいる。


大小天守を東の本丸から撮影した。ご覧のように多くの建築資材等がところせましと置かれている(令和1年10月5日撮影)早く本丸から建築資材等がなくなることを祈るばかりである。令和の天守閣は地震に強い建物に少しずつ生まれ変わっている。この何年かは毎年、甚大な災害が日本を襲っている。災害列島の日本では先ずは、建物を丈夫にすることが重要である。では地震に強い建物はどんなものか。建物は上、頭が重たいと地震に弱いようである。大小二つの天守閣の最上階は30%の軽量化に成功している。


ここも、本丸である。建築資材等が多く置かれているので、本丸のスペースが狭くかんじる。左の大木は清正公のお手植えと伝わる大銀杏である。本丸の角々にも多くの地割れが発生した。本丸周辺は地盤が軟弱と言われている。軟弱地盤は地震にも弱いと考えられる。そこで、天守閣には12本の基礎杭が47mの深さに打ち込んである。ここは本丸であるが、ここには阿蘇火砕流堆積物が40m堆積している。どこのお城も本丸は高いところにあり、熊本城も一番標高が高いここに大小天守閣を設けている。


熊本城の内部に10月から原則、日曜と祝日だけ入れるようになります。建物の内部ではなく、大小天守の東側の本丸の一部と大小天守西側の平左衛門丸の一部に足を踏み入れることが可能になります。上の写真のスロープを観光客は歩いてのぼることになります。スロープの上に大天守の最上階が見えていますが、小天守は木の陰で見えていません。熊本城は観光バスでいらっしゃるお客様が不便に思われるかもしれません。10月1日からバスは上の二の丸駐車場には原則として駐車できません。バスは下の桜の馬場バス駐車場で観光客を降ろします。観光客は片道約15分を歩くか、シャトルバスに乗り二の丸まで行きます。そういうことでお城の入口まで往復約30分かかります。(足がご不自由の方はシャトルバスをご利用ください。)


上の写真は天守の西側、平左衛門丸からの写真です。右の大天守は1600年の関ヶ原の時はほぼ出来ていたと言われている。左の小天守は清正時代か息子の忠広時代かはっきりしない。一説には小天守は小西行長が築城した宇土城から移築したとも伝わる。熊本城は「連結式の望楼天守」といわれている。3年前の地震では小天守の石垣の被害が甚大であった。もし昼間の地震であれば、大惨事になっていた。熊本城のことだけ考えるならば、夜発生したのは幸運であった。2016年の12月31日、NHKの紅白歌合戦の番組で氷川きよしはここ平左衛門丸で「白雲の城」を歌った。氷川きよしは地震から間もない熊本城で「復興への祈り」を熱く歌い上げてくれた。その熱唱を聴いて、涙した県民も多いのではないだろうか。


上の写真はニュース等で非常に有名になった「飯田丸五階櫓の一本石垣」があったところである。櫓も解体してこの近くに保管している。一本石垣も無くなり、石垣の解体も進んでいる。石垣の上に見えるのが、熊本城で一番長生きの楠で、樹齢800年と言われている。残念ながら飯田丸の石垣を近くで見ることはまだできない。なんとなんと「一本石垣」はあと一カ所ある。北西にある戌亥櫓である。この櫓は常時見れるようになっている。なぜ櫓は崩れずに一本石垣で耐えたのであろうか。櫓台の隅石は2㎝程度高くなっている。地震で他の石は崩壊しても隅石は上の櫓の重みが加わって持ちこたえたのである。これを「気負」という。「奇跡の一本石垣」が熊本地震で2カ所の櫓で発生した。これは、正しく肥後石工の技術の高さを物語っているのではないだろうか。


上の櫓は熊本地震でメディアによくとりあげられた飯田丸櫓と勘違いされる人が多いですね。櫓の形が似ているからか。此の一本石垣の東側の石垣は全体的に殆んど崩れた。戌亥櫓の東側と南側は地盤が元々弱いのであろうか壊れ方がひどいようだ。熊本城のある台地は、元来、強い石垣を造れる地盤ではない。弱い阿蘇溶岩が分厚く堆積している。清正公時代の石垣は今回の熊本地震で全然被害がなかったわけではない。熊本城は大袈裟にいえば「400年間被害と修理の歴史」と言うことも出来る。天下普請の江戸城や日本三大名城を手掛けた肥後石工の技術をもってしても軟弱地盤はいかんともしがたいものであろう。