熊本城の石垣は地震で3割に被害がでました


熊本城の城域全体の積石は約30万個でその約3割に積み直しが必要と言われています。この写真のような置場が熊本城域のあっちこっち設けられています。400年前の江戸時代と大きく異なり、石工がいないので修理に長い年月を要すると言われている。熊本城は築城の名手、加藤清正が造ったが、この400年の間に何回も地震等で崩壊を繰り返している。であるならば、清正公はお城造りの名人ではないのではないか。熊本城は標高約50mの茶臼山に築城されている。茶臼山には阿蘇山からの火災流堆積物(熔岩)約40m~70m堆積している。熊本城の下の地盤は阿蘇の弱い溶岩で出来ているので石垣等が崩壊しやすい。


この石は石垣の裏側に入っているものである。石垣の裏側にあるので、裏込め石とかぐり石と言われている。清正時代のぐり石は川原の石を使用している。物凄い量のぐり石を河原から運んだことになる。大勢の人手が必要であったことだろう。明治時代の修復には石垣に使用される、輝石安山岩を小さく割って利用している。石垣の裏側にぐり石を入れる理由は水はけを良くするためである。


上下の写真を見てください。此の通りは、昼間は多くの観光客で賑わうところである。熊本地震は2回とも夜に起きたので人間がケガをすることはなかった。もし地震が昼間に発生していれば、多くの死傷者が出ていたことであろう。夜の地震で非常によかった。

清正公が「土木の神様」と言われる理由とは


清正公は長い戦乱の世で荒廃した肥後の再建を領内の全土で行った。町づくり、道路整備、治水や利水の灌漑用水等等、30数カ所の事業の中から河川の付け替えを見ていきましょう。上の写真は3つの川が合流している所である。下の案内板に御船川の字ある。現在御船川は嘉島町の上島附近で緑川と合流している。清正公が肥後に来る前は上の写真の矢形川(右側)と御船川は合流していた。


下の写真2枚は嘉島町上島で緑川と御船川が合流している所である。


わかりにくいかも知れないが、下の写真の右側が大河の緑川である。緑川は名前のように緑色をしたきれいな一級河川です。上流の甲佐町に鵜の瀬堰がありますが、その堰も清正公が築造したものと言われています。


下は加勢川(左)と木山川(右)が合流している写真です。ボートは清正公が築造した河川膨張湖の江津湖に向かって進んでいます。江津湖の周辺は大昔から低湿地帯で稲作には不向きな土地でした。400年まえに肥後の藩主になった清正公は全長12キロの頑丈な塘を川尻まで造りました。塘は普通、両岸に造りますが、この川には右岸しか塘を造りませんでした。南に塘がないのは鹿児島の島津対策と言われています。片塘を造ることにより西側の土地は水田地帯に生まれ変わり、東側は河川膨張湖(江津湖)に生まれ変わりました。

細川幽斎と古今伝授の間と水前寺公園はどんな関係が


下は平成28年4月の熊本地震後に公園の池の水が底がぬけたように干上がった写真です。水前寺公園ガイドは阿蘇からの伏流水がなくなるとは思いもしませんでした。池の湧水が無くなった原因はなんでしょうか。明治22年の地震では今回とは逆に園内の遊歩道から水が湧き出し、1週間後には収まったと言われている。


新たに確認された活断層の水前寺断層は熊本市渡鹿から沼山津附近まで断層線が複数走っていると言われています。この断層線に沿って水前寺成趣園があることから、池の水が一時涸れたという見解もあります。


上の写真をよくみてください。全く水が見えませんね。地震前はこの附近が一番湧水が多いところでした。何故地震でこのような現象が現れたのか、専門家の統一した見解もないようです。地震前は地表に出てきていた、伏流水は地震後、地下に沈下するようになりました。しかしながら、少しずつ池に水が溜まるようになりました。

冬の水前寺公園の水は、一段ときれいに澄んでいるように思います。公園には白いスッポンが2匹いますが、残念ながら冬は冬眠しますので、姿を見ることはできません。


上の建物は「古今伝授の間」である。元々この建物は京都の御所にあった。京都にあった建物がなぜ、ここに移築されたのであろうか。古今伝授の間は細川幽斎公が天皇の弟に古今和歌集の奥義、秘伝を伝授した勉強部屋でした。

名城の熊本城は天守から修復がなされています。


熊本城のガイドは熊本地震後、観光ガイドに工夫が必要になりました。何故でしょうかそれは、しばらく城内に入れないからです。さて、上の写真は平成31年1月の写真です。小天守は最上階の4階部分がない状態ですが、大天守は足場がなくなり建物がよく見えるようになりました。熊本城は平成28年4月の熊本地震で甚大な被害がでました。不幸中の幸いは2回の地震が夜であった為、ケガ人がいなかったことです。早く観光客を建物の中にいれるべく、大天守と小天守を最優先して工事が行われています。


熊本城天守を加藤神社から撮った写真です。上の写真が新しいでしょうか古いでしょうか。下の写真は小天守に屋根があり、上の写真は屋根がありませんので非常に紛らわしいと思いますが、上が新しいです。屋根部分を軽量化して地震に強い工事を施すみたいです。頭が重たいと地震には弱いようです。大小天守の最上階は30%軽量化になります。


熊本城ガイドも熊本城がこんなに激しく傷つくとは夢にも思いませんでした。完全修復まで20年の歳月がかかるといわれています。熊本地震から3年すぎましたので、あと17年かかることになります。熊本城観光ガイドの私も修復完了を見届けたいものですが、それは叶わぬ夢でしょうか

会津と熊本を戊辰戦争や西南戦争を通して見ていきます。

 
これは四斤山砲です。西南戦争では薩摩軍も政府軍も主力の大砲はこれでした。しかしながら火器の数においては、両軍の差は歴然としていました。田原坂の戦いで力説しなければならないことは、大砲や銃器等の火器で決着がついたのではないということです。政府軍は薩軍の白刃の斬り込みに怯えていました。「刀には刀を」ということで政府軍は士族出身の警視抜刀隊を田原の戦いに投入しました。彼らは刀だけで戦いましたので、多くの戦死者が出ました。腕に覚えがある警視抜刀隊は薩摩の示現流とも互角の戦いをしました。「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」と民謡田原坂に歌われています。


平成25年の NHKの大河ドラマ「八重の桜」を憶えていらっしゃいますか、会津戦争は悲惨な話ししかない中で、唯一の痛快な出来事が山川大蔵(浩)が思いついた奇策でした。それは笛と太鼓を打ち鳴らした彼岸獅子を先頭に堂々と敵陣を進み鶴ヶ城に入城したことです。

 
これは、中央の青色が熊本城の全域です。薩摩軍は赤色で、熊本城を大きく包囲しているのがわかります。政府軍は城の各要衝に四斤山砲などの大砲を26門、設置しました。それに対して薩摩群は約8門の大砲でお城を攻撃しました。西郷隆盛はお城の近くに居場所を変えながら約50日滞在しました。西郷は50日の籠城戦で指揮をとることはなかったと言われています。熊本城は薩摩軍から包囲されていましたが、八代港から上陸した衝背軍の山川浩が4月14日に入城しました。勿論大変な戦闘の末に入城することができたと言われています。山川浩は会津藩の元家老で、彼も薩摩を非常に恨んでいました。

熊本城域にある7本の大楠は西南戦争時、


千年クスノキと言われるが、西南戦争で薩摩軍から激しい攻撃をうけクスノキはボロボロになる。しかし142年経ち7本の大楠は逞しく大枝を張っている。まさしくこの場所は、隠れたパワースポットであります。熊本城ガイドとしてこの付近をガイドすることは殆んどありませんが力を貰える所です。

この場所にありました藤崎宮は、西南戦争時に、花岡山に設置した薩軍の大砲によって社殿はめちゃくちゃに壊された。7本も大楠が同じ場所にあるのは、国内でも少なく大正13年に国の天然記念物に指定されました。藤崎宮は現在ここから少し南の井川渕に移転した。


熊本城は周囲5.3キロで東京ドーム21個分の広さがある。この広い城域にこのような大楠が多数存在するのも熊本城の魅力の一つであります。熊本城の魅力は石垣や天守、井戸だけではありません。夏もここは非常に涼しいので散歩に来ていただきたい.熊本城をガイドをするとき、必ずお客様と実験することがある。それは、お客様にクスノキの葉っぱを嗅いでもらうことである。子供はあまり喜ばないが、大人のお客様は大変に感激される。やはり人間はいい香りや嫌な臭い等には敏感なようである。今でもクスノキをチップにして樟脳を製造している。


阿蘇山は大きな大火砕流噴火を4回している。一番古いのがASO1で約27万年前ASO4が一番新しく、9万年前の噴火である。このASO4は凄まじい大噴火で北海道(知床や網走)では火山灰が今でも15センチ堆積している。熊本城の地盤にも40m~70m火砕流堆積物が分厚く堆積している。この堆積物は比較的やわらかい溶岩である。指先は洞穴を指しているが、岩盤が柔らかいので、スコップ等で簡単に掘れる。それに比較して石垣の石は非常に硬い。コンクリートの5倍の強さがある。熊本城の石は金峰山系の山々から切り出したものである。石は輝石安山岩という種類である。


此の露頭は阿蘇溶結凝灰岩である。大昔に阿蘇は大火砕流噴火を何回もしている。北海道で確認できるのは空を飛んだ火山灰である。熊本城の地下で確認できるのは大地を新幹線なみのスピードで流れ下った阿蘇溶岩である。阿蘇溶岩は山口県でも現在確認できるという。熊本地域は4回の阿蘇火砕流噴火と益城の赤井火山の砥川溶岩で日本一の地下水都市になった。

 清正公は石垣造りの名人ではあるが、石垣造りは多くの人手と危険を伴う大変な重労働である。山等から岩石を切り出して、ここまで運ぶことが大変なことである。このような自然の地形をうまく利用して、露頭を石垣替わりにすると、築城の期間が短くなり、人員も少なく、作業でケガをする職人も少なくなる。熊本城の周囲は5.3キロで非常に広い。城域にはこのように、溶結岩を石垣代わりした所も存在する。

熊本地震後に自噴するようになったもの(江津湖の下流の公園)


江津湖は清正公が造った河川膨張湖で加勢川の一部になります。平成28年の地震後、上の写真のように地下水のエネルギーで自噴するようになりました。現在1.2mの高さがあります。下の写真も同じ所です。以前はこのように2m以上噴き上がるのを目撃することもありましたが、今は安定しています。このように地下水が噴き上がるのを被圧地下水といいます。地下水に圧力かかっているので噴き上がるのです。水前寺公園等の湧水は不圧地下水といい、圧がかかっていません。水前寺公園等の湧水は託麻台地の突端(きわ)から漏れ出ていると言われています。


この伏流水は阿蘇の西麓から20年(諸説あり)の歳月をかけてここで自噴しています。この場所は水前寺江津湖公園(126ha)の広木地区にあります。この自噴の近くに公園を管理するサービスセンターの建物があるので、場所はわかりやすいかと思います。熊本は阿蘇のお蔭で日本一の地下水都市と言われています。平成25年には国連から「命の水最優秀賞」を頂きました。我々生物は水がなくては生きてはいけません。まさしく命の水です。生きていくうえで、一番大事な水を人は大事にしていません。江津湖の湖底や水面にはペットボトルや空き缶など「アリトアラユル」生活ゴミが物凄い量あります。生活ゴミは江津湖に限ったことではありません。世界中でプラゴミが大問題になっています。科学者は早くから警鐘を鳴らしてきましたが、為政者は抜本的な解決の政策をとることはできませんでした。