会津若松と熊本を戊辰戦争と西南戦争を通して考察します。

 
これは四斤山砲です。西南戦争では薩摩軍も政府軍も主力の大砲でした。両軍の火器の数の差は歴然としていました。田原坂の戦いで力説しなければならないことは、大砲や銃器等の火器で決着がついたのではないということです。政府軍は薩軍の白刃の斬り込みに怯えていました。「刀には刀を」ということで政府軍は士族出身の警視抜刀隊を田原の戦いに投入しました。彼らは刀だけで戦いましたので、多くの戦死者が出ました。腕に覚えがある警視抜刀隊は薩摩の示現流とも互角の戦いをしました。「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」と民謡田原坂にも歌われています。激しい戦いが3月4日~3月20日まで続きました。田原坂を凹道に掘ったのは加藤清正公と言われています。政府軍は熊本城に入城するために、くぼ地の田原の坂道を通らざるをえなかったのです。田原坂では両軍に大きな被害がでました。田原坂は政府軍にとって、「越すに越されぬ坂」でした。田原坂は西南戦争で一番有名な激戦地ですが、阿蘇でも人吉でも御船でも八代でも激戦がありました。


平成25年の NHKの大河ドラマ「八重の桜」を憶えていらっしゃいますか、会津戦争は悲惨な話ししかない中で、唯一の痛快な出来事が山川大蔵(浩)が思いついた奇策でした。それは笛と太鼓を打ち鳴らした彼岸獅子を先頭に舞わせながら堂々と敵陣を進み鶴ヶ城に入城したことです。秋月貞次郎は副軍事奉行として籠城戦を指揮しました。しかし会津の鶴ヶ城は薩摩軍の大砲でぼろぼろになり、会津は降伏しました。貞次郎は最も困難な降伏、開城を取り仕切ったと言われています。五高時代の同僚、小泉八雲から「神のようは人」と言わしめた」のは命がけの難しいことを処理したからであろう。戦いに負けた会津藩はその後、青森の斗南藩で筆舌にしがたい、悲劇的ことが色々と起こりました。そういうことで会津人は大変に薩摩を憎んでいたと言われています。(そういう時代背景でしたが、なんと鹿児島出身の大山巌陸軍大将と旧会津藩の家老の娘、山川捨松が明治16年に結婚しました。会津戦争と西南戦争で因縁を重ねたので、郷里の人々にとって受け入れられるものではなかった。大山家は薩摩と会津の両方とも親戚づきあいが絶えたと伝わる。)戊辰戦争は完全な銃砲戦であったが、西南戦争の初めは抜刀攻撃が戦果をあげ、重要な戦法として位置づけられた。

 
これは、中央の青色が熊本城の全域です。一周、5.3キロもある大変に大きい城です。薩摩軍は赤線で、熊本城を大きく包囲(約16キロ)しました。政府軍は城の各要衝に四斤山砲などの大砲を26門、設置しました。それに対して薩摩軍は約8門の大砲でお城を攻撃しました。西郷隆盛はお城の周辺に、居場所を変えながら約50日滞在しました。西郷は西南戦争で自ら、指揮をとることはなかったと言われています。50日以上、熊本城は薩摩軍から包囲されていました。しかし、八代港から上陸した衝背軍の山川浩(山川捨松の兄)が4月14日に入城しました。勿論大変な戦闘の末に入城することができたと言われています。山川浩は旧会津藩若年寄で、西南戦争では陸軍中佐として大活躍しました。彼もまた会津戦争で薩摩を非常に恨んでいました。戊辰戦争で鬼官兵衛と言われ恐れられた、佐川官兵衛は西南戦争では警視隊副指揮長として、阿蘇方面で戦いました。政府軍で参戦した会津藩の旧士族は会津戦争の恨みを西南戦争にぶつけたと言われています。会津城も熊本城も籠城戦でした。戊辰戦争で会津城の天守は大砲でボロボロになりました。西南戦争では、熊本城の天守等は燃えてしまいました。明治10年の2月22日~9月24日まで、悲惨な戦争が九州各地で7ヶ月間繰り広げられました。私、永田は熊本城や水前寺公園などをガイドしています。是非、熊本城にも来てください。(携帯電話090-2858-4760)