上の銅像は熊本市内の健軍神社の参道(長さ約1000m、幅約23m)にある。この馬は清正公の栗毛の愛馬であろうか。この銅像は清正公を大きく見せるためであろうか、馬が小さく造ってある。「往来で江戸のならず者にぶつかったとしても、帝釈栗毛はさけて歩け」と言われるほど荒々しい馬であったと伝えられている。近くに八丁馬場と言う電停がある。歴史のある健軍神社の楼門から西へ馬の調練場を造り後に神社への参道として寄贈した。調練場の起点となる場所に清正公が植えたと伝わる、大銀杏がある。清正公は銀杏が好きだったのか、熊本城の本丸や加藤神社にも御手植えしたと伝わるイチョウの大木が存在する。


上の銅像は清正公のお墓、本妙寺にある。本能寺の変の翌年に琵琶湖近くの賤ヶ岳で豊臣秀吉と柴田勝家の戦いがあった。この戦で非常に活躍した武将達を「賤ヶ岳の七本槍」と言う。清正公も7人の武将の1人である。この長い片鎌槍で大いに奮戦したのであろう。清正公は賤ヶ岳の戦いで全国的に有名になったと伝わる。賤ヶ岳の戦いの功により、秀吉から3000石を与えられる。


上が一番有名なお城の入口にある銅像である。上の3枚の写真は清正公が甲冑に身を固めている武者姿である。清正公は何に腰掛けているか。わかりますか、猛獣の虎である。朝鮮での虎退治といえば清正公である。秀吉の命令で他の大名も虎狩をしているが、虎狩りは清正公の専売特許になっている。清正公は虎も長い片鎌槍で仕留めたのであろうか。伝説が真実であれば、清正公は槍の名手である。朝鮮征伐の戦いで清正公の猛将のイメージが形作られたのであろう。愛知県名古屋市の徳川美術館には清正公が狩ったと言われる、虎の頭蓋骨が展示してある。400年前、朝鮮半島には虎がいたようである。


この銅像は熊本市の八景水谷公園にある。この写真は他の3枚の画像と違い、武士の普段着の服装です。清正公は非常に用心深い人と言われていますので、天下分け目の関ヶ原までは、甲冑で身をかためることも多かったことでしょう。しかし1600年以降はこのような普段着で肥後の領地を東奔西走して、土木工事の指揮をしたことでしょう。そういう理由で「土木の神様」として崇められることになります。熊本城を案内するガイドも、石垣の説明だけでなく、利水治水など土木の神様清正公の業績を案内する必要がある。


上の写真はどこかお分かりであろうか。ここは本妙寺で清正公のお墓、浄池廟付近である。この大きな石碑は高さ5m横約3m厚さ約1.3mで重さ36トンです。この大石は「浄池公廟碑」と言われ、清正公の事績の大きさを鹿子木量平が熱く語ったものである。死後、清正公は土木の神様として崇められていきます。白川の付け替え、御船川の流路変更など大規模な土木工事を数多く完成させました。いろんな土木築造のなかで、一番凄いものが菊陽町にある鼻ぐり井手であると量平は述べています。


清正公と言えば、熊本城、虎退治、そして土木工事である。土木工事で一番凄い施設が菊陽町にある「鼻ぐり井手」と鹿子木量平はいうのである。しかしながら、清正公が築造して400年間この施設にスポットライトが当たることはなかった。地元の人にもあまり知られてはいなかった。それが平成3年の台風で鼻ぐり井手をおおっていた樹木が倒れ、倒れた樹木を片付けたら、なんとなんとこの遺構が400年ぶりに出現したのである。まさしくこれは大きな驚きであった。NHKテレビをご覧になられたでしょうか、平成28年4月2日「火の国 熊本は水の国か」でタモリはこの鼻ぐり井手の中に下りられた。もちろん水があると歩けないので、用水路の入口を閉めた。この鼻ぐり井出は阿蘇溶岩で出来ていて、約20m掘り下げている。